大人になって授業の雑談に思うこと
授業に雑談は付き物だ。例えば、授業開始時なんだか空気に一体感がない場合、雑談を挟むことでばらばらだった注意をまとめ上げることができたりする。集中力が切れかかっているときの雑談もありがたい。雑談でリフレッシュすることで、残り時間も頑張れたりするものだ。学生時代の先生に「超」がつくほどの真面目な先生がいたのだが、その先生は授業の途中で必ずといっていいほど雑談をした。それがなかなか面白くて、生徒の間では「先生は真面目だから、あらかじめ、どこで何の雑談をするか教科書に書き込んでいる」という噂が流れたほどだ。
その一方でほとんどが雑談という先生もいた。勉強と関係があったり、なかったり、雑談の内容は様々だったが、息抜きの授業には違いなかった。今でも覚えているのが家庭科のおばあちゃん先生の話。
「デザートのミルフィーユ(そもそも何故ミルフィーユの話になったのだろう?)は綺麗でおいしいですが、お見合いなど緊張する場面では決して選んではいけません。ミルフィーユは食べるのが難しいんです。頑張ってもボロボロ汚らしくなってしまいます。私の知り合いは、お見合いでミルフィーユを食べて振られてしまいました!」
本当にミルフィーユのせいで振られてしまったのかは疑わしいが、ミルフィーユを見るたびにこの話を思い出してしまうのだから、雑談といえども侮れない。
このようにいろいろな思い出がある雑談だが、大人になると雑談の感じ方が変わってくる。学生時代は雑談大歓迎だったのが、お金や時間をやりくりして参加している今となっては、授業のほとんどが雑談なんていう状況は耐えられないのだ。もちろん雑談をするなと言っているわけではなく、要所要所の雑談は逆にありがたい。先生の人となりを垣間見ることができるし、集中して授業に臨むことができる。でも、いつになったら授業が始まるんだろうという長い雑談の挙句、短い授業、そして長々と続く締めの雑談には閉口させられる。そんなに雑談するくらいなら、もっと教えてと思ってしまうのだ。
それは昔に比べて学ぶことにどん欲になった証。たくさんのことを吸収したいという思い。そんなことを考えると、のんびり過ごしてきた学生時代が懐かしい一方で、昔の私にこのどん欲さがあればよかったと思ったりする。
さて、今度はどんな雑談が待ち構えているのだろうか?